是川銀蔵は、株投資家として史上初の高額所得ランキング1位

生まれ

是川銀蔵氏は1897年(明治30年)7月28日、兵庫県赤穂市に生まれた。

貧しい漁師の家だった。7人兄弟の末っ子だった。

小学校(高等小学校)卒業と同時に神戸の貿易商で丁稚(でっち)奉公をした。一日中休みなしで働かされた。唯一の楽しみは、新聞に掲載された小説『太閤記』を読むことだった。貧農から出世した豊臣秀吉の境遇を自らと重ね、鼓舞したという。

16歳で中国へ

1914年(大正3年)の春、勤務先の貿易会社が倒産した。是川は“天下取り”の布石として世界経済の中心地、ロンドンへの雄飛を決意した。16歳のときだった。

シベリア鉄道に乗るため是川は1914年6月に、中国・大連港に下り立った。

だが、第一次世界大戦の勃発。ロシアの参戦で旅券が発行中止になり、中国・大連で足止めをくった。

日本軍を相手に商売

2カ月後、日本はドイツに宣戦布告した。ドイツ軍が駐屯する青島(チンタオ)を攻略するため、大連に大部隊を送り込んだ。それを見た是川は「日本軍を相手にひと旗揚げよう」と思い立った。

山東半島に渡った軍を追いかけた。軍は青島へ。是川は青島までの250キロを激しい下痢に襲われながら追いかけ、青島付近で日の丸の旗を見て気を失った。

軍の会計係に

日本兵に助けられ、気の毒がられて、炊事係に採用された。さらに、簿記知識を買われて、会計係になった。その後、軍の信用を得て軍需物資の運搬も引き受けるようになった。

早々に独立し、貿易会社を設立

1914年11月には、こうした資金を元手に、小さいながらも、念願の貿易会社を設立できるまでになった。

贈賄で逮捕され、帰国

しかし、将校たちへの毎晩のような接待が贈賄とみなされ逮捕された。是川は取り調べの憲兵から「せっかく才能があるのだから正道を歩め」と諭される。

自分の未熟さに涙を流した是川は、再スタートを誓い日本に帰国したのだった。


大阪で鉄のブローカーとして独立

当時の日本は大戦景気の中にあった。1918年(大正7年)4月、兵庫県龍野町で親類から貝ボタンの製造工場を任せられていた是川は家庭を持った。景気の追い風に乗って1919年には大阪で鉄のブローカーとして独立する。

金融恐慌で倒産

1923年(大正12年)9月の関東大震災で復興用のトタン板を買い集めて大もうけした。しかし、それもつかの間、1927年(昭和2年)の金融恐慌で倒産する。

妻子5人を抱えていた。31歳だった。

証券取引所のある大阪の北浜へ

その後、是川は世界経済を3年間猛勉強する。京都の嵐山から大阪の中之島図書館に通った。この間の収入はゼロだった。生活は友人からの支援で乗りきった。

勉強の結果を株式投資で試そうと、1931年(昭和6年)、資金70円を手に、証券取引所のある大阪の北浜に乗りこむ。予測は“百発百中”だった。1931年暮れに元手は7000円になっていた。

1人の相場師が誕生したときだった。

経済研究所を設立

1933年(昭和8年)、大阪に経済研究所を創立した。スタッフ50人を抱え、事業は順風満帆だった。

主要各国の財政を分析するうち戦争の兆候を察知する。是川は日本の戦力に貢献すべく、研究所をたたんだ。

朝鮮で鉄鋼メーカーを設立

1938年(昭和13年)に朝鮮半島へ。大戦中の1942年(昭和17年)、製鉄会社を設立した。従業員は3000人にまで膨らんだ。

敗戦ですべてを失う

しかし、敗戦ですべてが消え去った。終戦翌年(1946年)の春、朝鮮から着のみ着のままで山口県仙崎港に帰国した。


70歳を過ぎてから仕手戦に参入

是川氏が仕手戦に参入したのは70歳を過ぎてからだった。とても遅い年齢だった。

1974年の日本エヤーブレーキ株をめぐる仕手戦を始めた。株の街、大阪・北浜で注目を集めた。

住友金属鉱山株で有名に

特に有名な仕手戦が、1981年から住友金属鉱山株だった。1981年の「金鉱脈発見」の1本の新聞記事を契機に株を買い集めた。1982年に鹿児島県・菱刈金山の存在が明らかになると、株価が急騰。10倍にもなった。わずか半年間で数百億円の利益を手にしたといわれている。

投機集団「誠備」の仕手に「売り」で対抗

是川銀蔵氏はまた、投機集団「誠備」グループの仕手戦に対抗した。いわゆる「誠備銘柄」の売り手に回った。「誠備」グループリーダーの摘発で株が暴落した。逆転勝ちをおさめて「最後の相場師」の健在ぶりを示した。

「株式は最高の経済学」

このほか、日本セメント、同和鉱業、本田技研工業、東京電力株などを手掛けた。

過去の相場師とは異なり「株式は最高の経済学」をモットーに掲げた。

ブラックマンデー後の大手鉄鋼株相場を的中

1987年10月のブラックマンデー後の大手鉄鋼株相場を的中させた。


長者番付で全国トップに

1982年度には、高額納税者ランキング(長者番付)で全国トップになった。28億9000万円の申告だった。


是川奨学財団

慈善活動

一方で、慈善活動や福祉活動に熱心だった。1979年、大阪に「是川奨学財団」を設立した。身よりのない孤児の進学を援助する団体だ。

参考:https://www.korekawa-zaidan.jp/korekawaginzou/

「相場が最大の健康法」

生活は質素だった。「相場が最大の健康法」と語っていた。「自分自身では相場師と思っていない。理論的な投資だ」と強調していた。

晩年に長男を失うなど悲運に見舞われた。1991年、自伝「波乱を生きる」を刊行した。

晩年も老人施設から相場指示

1991年夏から亡くなるまでの約1年間、愛知県一宮市北部にある老人保健施設「アウン」に入居した。唯一の楽しみは株で、往年に比べれば少ない額だが“真剣勝負”していたという。朝から丹念に経済紙に目を通し、訪問者や電話での相手に株相場について指示をしていた。

老衰により95歳で死去

1992年9月12日に死去した。バブル崩壊が加速した時期と重なった。95歳だった。死因は老衰だった。静岡県熱海市在住だった。

関係者によると是川氏は「静かに最後をまっとうしたいので、(死亡について)外部に言わないでほしい」との遺言を残していた。1992年9月13日に内輪だけの葬儀を済ませたという。


年表

■ 是川銀蔵氏の生涯(年表)
年月日 出来事
1897年
(明治30年)
7月28日
兵庫県赤穂市に生誕。貧しい漁師の家だった。
7人兄弟の末っ子だった。
1914年
(大正3年)
勤務先の貿易会社が倒産。
ロンドン行きを決意。
1914年6月 中国・大連港に下り立つ。
第一次世界大戦で足止め。
1914年11月  中国で貿易会社を設立。
しかし、贈賄で逮捕され帰国。
1919年 日本で大阪で鉄のブローカーとして独立。
1927年
(昭和2年)
金融恐慌で倒産。
1931年
(昭和6年)
投資ビジネスに参入。
1938年
(昭和13年)
朝鮮半島へ。
1942年
(昭和17年)
朝鮮で製鉄会社を設立。
1945年 敗戦で全てを失う。
1946年 朝鮮から着のみ着のままで山口県仙崎港に帰国。
1974年 日本エヤーブレーキ株をめぐる仕手戦を展開。
1981年 住友金属鉱山株の仕手戦を開始。
1982年 高額納税者ランキング(長者番付)で全国トップに。
1987年 ブラックマンデー後の大手鉄鋼株相場を的中。
1992年
9月12日
老衰で死去。享年95歳。

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