伝説の相場師:遠山元一(とおやま・げんいち)

遠山元一

遠山元一(とおやま・げんいち、1890-1972年)氏は、日興証券(現:SMBC日興証券)の創業者。

代々続く豪農の長男として生まれたが、父親の投機失敗で貧乏少年に転落。

兜町の奉公人となり、そこからのし上がった。

慎重な投資姿勢を貫きながらも、相場で大成功を収めた。

立志伝中の人物だ。

SMBC日興証券

豪農の息子から、貧乏人に転落

1890年、埼玉県川島町(かわじままち)に生まれた。

富豪の家の長男だった。

しかし、幼いころ、父親が米の投機で大失敗し、貧乏になってしまった。

丁稚奉公(小僧)に出ることになり、苦労の重ねた。母親の影響でキリスト教徒になった。

川島屋商店(後の日興証券)を創業

川島屋商店

1918年(大正7年)、東京・兜町で「川島屋(かわじまや)商店」(後の日興証券)を創業した。

川島とは、自分の出身地の川島町からとった。

開業時のメンバー(人員)は、店員、交換手、女中含めて5人だった。電話が2本あった。

投機に染まらず「正しい精神」を重視

川島屋商店を創業した当時、日本では投機の嵐が吹き荒れていた。

こうしたなか、「川島屋の経営の精神」という冊子を社内に配った。冊子では、兜町の悪風に染まらずに「正しい精神をもって今日ある」ことを誇った。そして、組織のあり方と社員の秩序を訴えた。

慎重な投資

遠山元一氏の投資は、「憶病」が特徴だった。

深追いはしなかった。「腹八分で兵を引く」というスタンスだった。

その理由は、幼少期に父親の失敗を見たからだ。

相場の怖さを実体験した。

戦争中に興銀系の証券会社と合併し、社長に就任

日興証券の看板

戦時下の1944年(昭和19年)、川島屋商店は、日本興業銀行(現:みずほ銀行、略称:興銀)系の証券会社(日興証券)と合併した。

これは、戦時下の法律による措置だった。

合併後の会社名は日興証券となった。それでも、社長は日本興業銀行系の人物ではなく、遠山元一が就任した。

興銀が証券会社を設立した理由

ロゴ

そもそも日本興業銀行が旧日興証券を設立したのは、第1次世界大戦後の日本の経済恐慌と深い関係あった。

恐慌のとき、興銀は救済融資のための資金を、「債券」の発行によって調達しようとした。

政府からの支援だけに頼りたくないと考えたのだ。

シティバンクがモデル

興銀グループが見本にしたのは、アメリカのシティバンク(当時:ナショナル・シティ・バンク)だった。

シティバンクは、銀行と証券機能を分離し、好業績を挙げていた。

これが興銀の小野英二郎副総裁の目にとまった。

それをモデルに興銀の債券消化機関として1920年(大正9年)に、日興証券を独立した。

社長から会長へ

遠山元一社長は1952年、会長に就任した。

後継者として興銀のスター、湊守篤を迎える

後任社長として、興銀のスターだった湊守篤(みなと・もりあつ)氏を充てた。

自分の後継者として、三顧の礼で興銀から迎えたのだ。

「遠山記念館」

遠山記念館

1936年に純日本式の遠山邸を完成

自分が生まれた家に建てた。

遠山家は、遠山氏の父親の投機失敗により、没落していた。

しかし、遠山氏は若くして相場師として、投資活動で大成功した。

相場で儲けたお金で、自分が生まれた家の土地を買い戻した。

1936年(昭和11年)に純日本式の遠山邸を完成させた。

生家「再興」のドラマ

遠山元一が夢にも忘れなかった生家の再建を決意してから実現するまで実に30年がかかった。

かつて旧川島郷きっての“豪家”といわれた遠山一族。

梅屋敷の名を誇った生家は人手にわたっていた。

約9000平方メートルの土地を買い戻したときは雑木林と桑畑に変容していた。

「金はいくらかかってもいい」。

元一の命を受けた弟の芳雄が指揮を執った。

設計監督は東京帝大出身の建築家、室岡惣七、大工棟梁(とうりょう)は中村清次郎がつとめた。

再興への情熱はすさまじかった。

全国各地の杉、ヒノキ、キリなど最高の銘木を足で集めた。

施工の細部にいたるまで徹底的に検討を繰り返した。

1300平方メートルの邸宅。

関東の豪農の邸を思わせる。

10万人が関与した巨大プロジェクト

2年7ヵ月の工期に携わった職人は延べ3万5000人、関係者は10万人にものぼったとも伝えられている。

雨戸170枚、畳250枚、23部屋の大邸宅。

完成から4年後の1940年(昭和15年)、朝香宮殿下が宿泊した記録は残っている。

遠山記念館の構成

<遠山記念館の3棟と廊下の構成>
東棟わらぶき屋根
中棟2階建て入り母屋屋根。書院造りながら近代風を加味した。
西棟京間の数寄屋造り。仏間を備えた
廊下南庭を取り込むように3棟を結ぶ

苦労した母親のために

遠山元一氏が新しい大邸宅をつくったのは、苦労した母親に住んでもらうためだった。

母親の美以(みい)は、苦労人だった。

3世代の夫婦が同じ屋根の下で暮らす大家族主義の遠山家に嫁いだ。

家運を傾けた放とう夫の行動責任を押し付けられた。

そして、離縁を余儀なくされた。まさに不遇の人生をたどっていた。

そんな母親の苦労に報いるためにも、遠山氏は必死で生家を立て直したのだ。

迎賓館として使用

1948年(昭和23年)に美以が他界した。

そのあとは、遠山元一氏が客を接待する迎賓館として使われた。

美術館に

遠山氏は晩年の1970年(昭和45年)、その生家を美術館に変え、「遠山記念館」としてオープンさせた。

長年収集した美術品を寄贈した。長年にわたって収集した国の重要文化財5点を含む書画・陶磁器・染織品・人形などの収蔵品を展示する美術館を敷地内に付設した。

美術館の開設主体は財団法人。1970年5月10日にオープンした。

亡くなる2年前のことだった。

遠山記念館の紹介動画

82歳で死去

1972年、82歳で死去した。死因は心不全だった。

シティバンクのグループに入る

創業者の遠山元一が死去してから26年後、日興証券は、米シティバンク(シティグループ)の子会社となる道を選んだ。

山一証券が1997年に消滅した後、日興証券は野村、大和と並ぶ3大証券の一角を占めていた。

不正な利益水増し問題で上場廃止の危機に直面していた。

コンプライアンス(法令順守)の重大さが浮き彫りになった。

市場の信頼回復と経営立て直しを図るために、外資の傘下に入った。

シティグループ(当時:トラベラーズ)が日興証券に25%を出資した(約2200億円)。シティは日興の筆頭株主になった。

シティから役員の派遣も受けた。

日興コーディアル証券の宣伝ポスター(イチロー)

イチロー



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