通信用の機器・部品メーカー

「高周波無線」の技術

多摩川ホールディングス(旧:多摩川電子)は、通信機器の部品メーカーだ。「高周波無線」の技術に強みを持つ。主に携帯電話、防災無線、放送など公共性の高い設備向けに提供する。

無線通信(携帯電話)、放送、防災無線などに使われる「増幅器」「減衰器」「フィルタ」「分配器」などを手掛けている。必要な周波数の取捨選択、信号の強弱の調整など、通信環境に適した機能の維持に必要な製品群を展開している。つまり、ニッチ分野で会社の強みを発揮するのがうまい。

このほか、風力発電や太陽光発電を手掛けている。自前の発電所で電力をつくり、販売している。

雑誌「FACTA(ファクタ)」では、「ハコ企業」などと書かれることもある。しかし、実際のところは、まじめな製造業である。

歴史

<多摩川ホールディングス(旧:多摩川電子)の歴史・年表>
出来事
1968年 有限会社多摩川電子を設立。高周波回路素子の開発・製造・販売を開始。
1970年 株式会社化。本社工場を横浜市港北区に移転。
1977年 神奈川県綾瀬市に本社工場を移転。
1985年 計測機器製品の生産体制強化を図る。
1997年 武川エレクトロニクスを合併
1999年8月31日 株式をジャスダックに上場(店頭公開)
2002年1月 山梨新工場完成
2005年9月 山梨工場閉鎖
2007年 持ち株会社制へ移行。会社名を「多摩川ホールディングス」に変更。事業会社(100%)として多摩川電子が新たに発足。
2012年 太陽光発電所の運営専門会社として子会社GPエナジーを設立。
2013年 太陽光発電システムの販売会社として子会社多摩川ソーラーシステムズを設立。

株式上場(1999年8月、ジャスダック)

1999年8月、株式をジャスダックに上場した。多摩川電子は高周波無線技術専門メーカーとして知られていた。

高周波回路素子の製造を柱に、計測機器・半導体組み立てを事業展開している。売上高のうち移動体通信市場向けが53%(1999年3月期)を占めた。

高周波回路素子は、携帯電話や防災無線用の機器・装置をはじめ、トンネルなど電波の届きにくい不感地域対策用無線機器まで幅広い分野に生かされている。

通信システムは、従来のように有線・無線を区別することなく、衛星通信まで含めた融合システムへ発展する方向にあった。さらに、利用される周波数帯域も、周波数の有効利用の観点から、マイクロ波やミリ波といった高周波帯域の利用促進が見込まれていた。多摩川電子の活躍余地が大きいと期待された。

創業以来培った高周波無線技術の実績を背景に、店頭公開までの直近5年間の売上高の平均伸び率は18%だった。次世代移動通信システム(W-CDMA方式)導入に伴う、通信基地局整備により高周波回路素子、測定機器、半導体の需要増加が見込まれた。このほか、高度道路交通システム(ITS)、放送デジタル化などの環境整備に不可欠な技術に注目が集まった。

主要納入先は、富士通カンタムデバイス、日本無線、三菱電機、安藤電気、富士通、国際電気など。複数の大手企業と取り引きしていることも強みのひとつだった。

■ 株式公開の状況
筆頭株主 創業者・堀正人氏(当時の社長)=公開前38.30%
主幹事 日興ソロモン・スミス・バーニー証券
本社の住所 神奈川県綾瀬市上土棚中3-11-23
従業員 208人
売上高 58億
資本金 10億
上場の目的 同族企業からの脱皮など
業種 高周波回路素子の専門メーカー
事業の柱 多摩川電子は、無線機器・装置に不可欠な増幅器や減衰器などの開発・製造・販売が主力。さらに計測機器や半導体組立事業などを通じて高周波技術を蓄積してきた。
売上高の構成比 移動体通信市場向けが53%(1999年3月期)。
特徴 創業以来、一度も赤字を出していない。

株式公開後の展開(2000年)

2001年秋に山梨県武川村に組立工場の建設に着手した。新工場建設には株式公開で得た資金を充当した。

量産組み立て・調整工場を建設する用地として、2000年4月に山梨県武川村に約3300平方メートルを取得した。取得金額は6000万円。農業用地からの転換を申請。2001年に整地に入った。

人材面では、高周波回路設計の経験を持つ中堅技術者を早急に確保した。この分野での人材市場は小さいものの、10年以上の経験を持つデバイス品設計技術者をヘッドハンティングして確保した。受注動向をみながら、さらに採用人数を増やした。同時に若手技術者教育にも力を入れた。

当初1999年度にW-CDMA関連機器の売り上げを見込んでいたが、キャリアー側の設備計画の遅れが影響、関連機器の開発・試作止まりだった。

しかし、2000年度からW-CDMAの基地局が本格的に立ち上がり、設備部品の受注が徐々に増加してきた。このため、多品種少量の開発・生産体制を量産体制に切り替えた。

鈴木邦男・社長の就任(2001年6月就任)

2001年6月、鈴木邦男氏が社長に就任した。秋田県出身。59歳。

創業者・堀正人会長から後継者に指名された。当時59歳だった。堀氏とは、独立前の会社で知り合ってから35年余。苦楽をともにし、第一線の営業マンとして東奔西走してきた。

趣味は民謡と料理。週末は率先して台所に立って煮物やシチューなどを作って、家族に振る舞ったという。

デバイス部門をコアビジネスとした事業展開により、「2005年3月期には売上高100億円、営業利益10%」の目標を掲げた。

【鈴木邦男社長の略歴・プロフィール】
出来事
1960年
(昭和35年)
秋田県立大曲高商卒
中万商店、日本科学工業に勤務
1968年 多摩川電子入社
1970年 取締役
1978年 専務

藤原孝雄・社長の就任(2005年6月就任)=富士通出身

藤原孝雄・社長が就任した。富士通から転身し、多摩川電子で営業部長を務めていた。光通信とマイクロ波の技術に精通する点を前社長に見込まれた。兵庫県出身、63歳。2005年6月29日就任。

研究出身

もともと研究出身だが、経理と総務以外の部署を経験してきた。こうした経験を生かし、多摩川電子の技術を、ユーザーの力に変えるべく奔走することになった。多摩川電子は職人気質だった。「高い技術を持ちながらユーザーへのアピールがもう一つ」という問題意識があったという。

入社後、技術者が営業と一緒にユーザーに訪問するスタイルを提唱した。納期短縮や提案型営業、信頼度の向上に道筋をつけた。

海外製品による部品単価の下落

藤原社長が就任した当時、無線通信関連機器の市場では、海外製品による部品単価の下落が進んでいた。付加価値向上による単価維持と、コスト削減での収益性維持が課題だった。

「増幅器や切替機など部品での対応では生き残りが難しい」として付加価値を高めることを目標に掲げた。具体的には、フィルターと増幅器など自社製品同士を組み合わせてユニット化を目指した。

マイクロ波と光通信双方のノウハウ

また、トンネルや地下、ビル内など携帯電話やラジオの電波が入らない「不感地帯」での通信は、光通信とマイクロ波を複合して使う。多摩川電子はマイクロ波と光通信双方のノウハウを持っており、これが優位性だった。これを生かし、光応用分野で高いシェアを確保することに取り組んだ。携帯電話とデジタル放送関連でのシェア拡大に尽力した。

【藤原孝雄社長の略歴・プロフィール】
出来事
1970年
(昭和45年)
大阪市立大工応用物理研究科修士課程修了。
1961年 住友原子力工業入社
1971年  富士通研究所入社
1980年  富士通入社
1986年  半導体事業本部光半導体技術部長
1994年  富士通カンタムデバイス(現ユーディナデバイス)社長
2004年  多摩川電子事業推進部長。

持ち株会社制(多摩川ホールディングス)への移行

橋本昇氏の社長就任(2007年10月)

橋本昇氏は金融コンサルタント出身。35歳という異例の若さで、多摩川ホールディングス社長に就任した。持ち株会社の初代社長である。東京都出身。

【橋本昇社長の略歴・プロフィール】
出来事
1990年
(平成2年)
埼玉県立川越西高卒。
1996年 インフォテックコーポレーション取締役。
2004年 ニューダイナミックコンサルタンツ(現ジェイ・キャピタルマネジメント)取締役
2006年 社長
2006年 JCMアセットマネジメント取締役
2007年 多摩川電子アドバイザー長
2007年 取締役
2007年10月1日 多摩川ホールディングス社長就任(当時35歳)

高校卒業後、アメリカで放浪生活

高校卒業後、渡米した。放浪に近い生活を送ったこともあったが貴重な経験だったという。25歳の時、父親が創業した小さなソフト会社に入社した。企画営業的なことをしていた。

その後、金融業界の人脈を得て投資会社でコンサルティング業務を手がけた。実業と金融という二つの経験が評価され、株主に推薦されたという。

シンガポールのアプライト・テクノロジーズを子会社化

社長に就任した当時、多摩川電子の売り上げの約7割は通信用高周波回路素子製品、約3割を無線通信用などのシステム機器が占めていた。

会社分割で子会社の立場となった多摩川電子は、1992年頃に開発した高周波回路素子製品に長く依存していた。親会社として多摩川電子が保有する技術や製品にいかに付加価値を付けられるかを追求した。

社長就任後は、M&Aに取り組んだ。ハードディスク(HD)の表面加工装置を主力とするシンガポールのアプライト・テクノロジーズを子会社化した。ハードディスク駆動装置(HDD)にデータを入れるための溝をレーザーで開ける微細加工技術を持っている会社だった。

退任後に訴訟を起こされる

橋本昇氏は、退任後に多摩川ホールディングスから裁判を起こされた。2億円の損害賠償請求の訴訟である。2013年5月、500万円の支払いなどで和解した。

出典:https://www.tmex.co.jp/wp/wp-content/uploads/2016/12/20130516-2013press_0516.pdf

宇留嶋健二氏の社長就任(2009年6月)

宇留嶋健二(うるしま・けんじ)氏が、2009年6月26日付で、社長に就任した。当時53歳だった。福岡県出身。

橋本昇社長は非常勤取締役に退いた。

【宇留嶋健二社長の略歴・プロフィール】
出来事
1979年
(昭和54年)
立命館大経営卒
1979年 和光証券(現みずほ証券)入社
2002年 日本協栄証券経営企画部長
2004年 ヤマノホールディングス経営企画部長
2007年 ブイエイアール取締役
2008年 多摩川ホールディングス執行役員
2009年 アドバイザー

小林亨(こばやし・とおる)氏の社長就任(2011年6月)

小林亨(こばやし・とおる)氏が、2011年6月29日付で、社長に就任した。当時46歳だった。神奈川県出身。

宇留嶋健二社長は退任した。

【小林亨社長の略歴・プロフィール】
出来事
1988年
(昭和63年)
立教大経卒
1988年 日本フィリップス入社
1993年 日本モレックス入社
1998年 ボッシュオートモーティブシステム(現ボッシュ)入社
2009年 多摩川ホールディングス環境関連事業準備室長
2010年 バイオエナジー・リソーシス代表取締役。

福永節也氏の代表就任(2012年2月)

福永節也氏が、2012年2月1日付で、代表取締役に就任した。

福永節也氏は、太陽光など自然エネルギー事業のリーダーである。太陽光発電事業を展開する「多摩川九州」(福岡市)の社長にも就いた。

2013年10月、長崎県五島市浜町にメガソーラー(大規模太陽光発電所)を建設した。敷地面積は約2万5千平方メートル。縦0・9メートル、横1・6メートルのパネルを約7800枚並べた。最大出力は約1・9メガワット。地権者と20年間の賃貸契約を結んだ。

一方、前任の小林亨社長は、2012年4月18日に社長業を退任した。

大株主の桝沢徹(ますざわ・とおる)氏の代表取締役就任

桝沢徹(ますざわ・とおる)氏が2012年6月28日付で、代表取締役に就任した。桝沢徹は、外資銀行の日本支店で実績を重ねた金融マンである。

投資会社ジェイ・ブリッジ出身である。ジェイ・ブリッジは、東証2部上場の倉庫会社だった2004年2月、投資ファンドのアンフィールド・オーバーシーズ・コーポレーションが筆頭株主になった。そして、不動産、不良債権、企業(株式)を対象にした投資事業と、M&A事業に参入した。その際、桝沢徹氏を社長としてスカウトされた。英バークレーズ銀行や独コメルツ信託でディレクターを務めた。

投資会社ジェイ・ブリッジ社長時代に多摩川電子に出資

桝沢氏が率いたジェイ・ブリッジは、金融界の逸材をそろえた。副社長の平山雄一氏は新生銀行の企業再生本部でクレジット・トレーディング部長だった人物だった。

また、野村証券の米国子会社時代に商業用不動産ローン担保証券ビジネスを手掛けたイーサン・ペナー氏、スターウッドホテルアンドリゾートの社長兼COO(最高執行責任者)だったジェフ・ラピン氏らが、経営顧問として名を連ねた。

そして、ジェイブリッジは厳しく資産査定をしたうえで投資先を選別・決定していた。その一環として、すでにジャスダックに上場していた多摩川電子に目をつけ、出資した。